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名古屋高等裁判所金沢支部 昭和24年(ネ)12号 判決

控訴人は原判決を取消す、被控訴人の請求を棄却すとの判決を求め、被控訴人は主文同旨の判決を求めた。当事者双方の事実上の陳述は、控訴人に於て被控訴人が本件訴願裁決書の送付を受けたのは昭和二十三年二月二十日と述べ、被控訴人に於て右送付の日が控訴人主張の如くなることを認むと述べた外原判決事実摘示と同一であるからここに引用する。(立証省略)

三、理  由

豊川村農地委員会が昭和二十二年十一月十九日被控訴人所有の鹿島郡豊川村字豊田ハの部九十三番一、田五畝九歩、ハの部九十四番一、田二畝二十九歩、ハの部九十五番一、田三畝二十八歩を所謂不在地主の小作地であると認定してこれを買收する計画を定め、同年十二月三日右農地をその小作人出崎兵太郎に売渡す計画を定めたこと、被控訴人は右買收売渡計画につき同村農地委員会に異議を申立てたが却下されたので控訴人に訴願を爲したところ昭和二十三年二月十三日訴願却下の裁決があり同月二十日裁決書が被控訴人に送付せられたことは当事者間に爭のないところである。被控訴人は昭和二十年十一月二十日当時住所は豊川村字豊田ニ部九十七番地にあつたと主張するに対し、控訴人は被控訴人の当時の住所は大阪府北河内郡住道町であると抗爭するから、この点を審究するに成立に爭のない乙第七・第十九・第二十一・第三十一号証に原審並に当審証人出崎兵太郎・山口伊七郎・山本林造、原審証人中村太一郎・奧谷忠次郎・的場忠太郎の各証言を綜合すると、被控訴人は本籍地石川県鹿島郡豊川村字豊田ニ部九十七番地に於て農業を営む父庄太郎の長男として出生し、長ずるに及び大阪方面に於て大工職を見習い爾來郷里を離れて出稼するを常とし、昭和二十年の終戰頃までは農繁期を除いて郷里に帰ることも稀で概ね大阪方面で大工を職として生活を営み、昭和十九年七月七日には大阪府堺市栄橋通一丁目二番地に寄留し郷里には妻との間に二子あるにも拘らずその頃中村すゑのと関係してその間に昌子を儲け、次で大阪府中河内郡盾津町に居を移し昭和二十年九月八日右すゑのと昌子を伴つて大阪府北河内郡住道町に転入し、すゑのを妻、昌子を長女として町籍簿に記入せられ、同所に一戸を構えていたことが明らかであるから、出稼以來昭和二十年九月上旬頃までは被控訴人の住所はその本籍地になかつたものと認めねばならない。しかしながら成立に爭のない甲第十号証に原審証人加藤哲次(第一、二回)の証言、同証言により眞正なりと認むる甲第一、二号証に、当審並に原審証人高橋喜三右衞門、当審証人中村すゑの、原審に於ける証人浜崎ちの・村田順平・不動田忠次・谷一常吉・沢田太吉郎の各証言、及び被控訴本人訊問の結果を綜合すれば、被控訴人家は父祖の代よりその本籍地に於て宅地建物田畑を所有して自ら農業に從事し、昭和十九年度以降供出米を期日前に完納している模範農家であるが、元來豊田部落は一戸当の平均耕作面積が比較的に少いため農閑期を利用して他へ出稼する者多く、被控訴人家に於ても父庄太郎存命中は被控訴人の父と妻とが專ら農業に從事し、被控訴人は前示の如く出稼して一家の経済を補つていたのである。ところが昭和二十年四月三十日父庄太郎の死亡により長男である被控訴人としては自家の農業を維持していくためには直ちに帰村しなければならなかつたのであるが、当時は太平洋戰爭中であり大工として大阪の松村組に雇われ軍関係の仕事にたづさわつていた被控訴人は直ちに帰村し得ない事情にあつたのである。しかるに同年八月の終戰によりはじめて右軍関係の仕事に拘束される必要もなくなつたのみならず、同年九月八日住道町に一戸を構えて堺市の戰災により一時盾津町に間借していたすゑの等に対し住居の安定を与え得たので同月下旬の農繁期を機会に帰村せんことを決意し、昭和二十年九月下旬頃本籍地の我が家に帰り爾來同所にあつて父の跡をつぎ現在に至るまで妻と共に專ら農業に從事し供出米並に村民税を引続き完納していることを認め得べく、從つて右昭和二十年九月下旬以降被控訴人の住所はその本籍地である豊川村字豊田に移つたもので、同年十一月二十三日当時は勿論同所に住所があつたものと謂わなければならない。もつとも成立に爭のない乙第八、第三十号証によれば被控訴人が前記住道町より本籍地に転入したのは昭和二十一年十二月五日になつているが、この事実と原審に於ける被控訴本人訊問の結果並に当審証人中村すゑのの証言とを比照して考察すると被控訴人は帰村した後も右すゑのとの関係を断ち難く農閑期を利し二ケ月に一回位の割合で住道町に赴いていたが、被控訴人としては食糧難にあえぐ大阪府下で生活する右すゑの及び昌子の生活を保障するの責任があつたので自己の大阪府に於ける配給米をも合せて同人等の需要に当てるため殊更転入の手続を前示の如く遅らせていたものであることを推認し得べく、從つて転入の時期によつて被控訴人の住所は断じ難いのである。又成立に爭のない乙第二十一、第二十七、第二十八号証によれば昭和二十四年四月当時被控訴人は右住道町に家屋を所有し出崎修治なる表札を掲げていたことを認め得べく、又前示中村すゑのの証言並に成立に爭のない乙第二十三号証によれば、すゑのは昭和二十五年三月郷里岐阜県の実家に帰るまで右家屋に居住し被控訴人との間に昭和二十三年三月三十日男子一正を挙げたことが明らかであるが、被控訴人と右すゑのとの関係が前示の如くなる以上かかる事実は毫も異とするに足らず、これによりて被控訴人の住所を右家屋の所在地であると速断するは当らない。又当裁判所が全部眞実なりと認める乙第十一、第十二号証並に成立に爭のない乙第二十、第二十六号証によれば、被控訴人が昭和二十、二十一、二十二年度の豊川村の選挙人名簿に登載されておらず、二十、二十一年度の産米保有人員に加えられず、又二十、二十一年度の農業人口調査には不在者として取扱われたるに反し、被控訴人が大阪府住道町の町民税を昭和二十一、二年度に亘り納入し、昭和二十二年度の住道町の選挙人名簿に登載されていることは明らかであるが、これは前段認定の転入の遅れた事実並に住道町に家屋を所有していた事実、被控訴人が転入後も引続き前示すゑのとの関係を継続して住道町に時々赴いていた事実と、調査の精密ならざるところより招來した結果であることは前段認定の事実より推認し得べく、かかる形式的事実によつて直ちに住道町に住所ありと主張するは皮相の見解たるを免れない。要するに被控訴人の住所はその父の死を動機とし終戰を機会として昭和二十年九月下旬の農繁期以來その本籍地に移つたものと謂わなければならない。從つて被控訴人が出稼以來昭和二十年十一月二十三日当時まで引続き大阪府下に住所を有していたとの控訴人の主張は失当であり、原審がこれに反し右出稼に拘らず被控訴人が終始その本籍地に住所を有していたと認定したのも眞実に徹せざるの譏はあるが、昭和二十年十一月二十三日当時の被控訴人の住所を豊川村字豊田にありと断じ、被控訴人の請求を認容したのは結局相当であるから本件控訴を理由なきものと認め、民事訴訟法第八十九条第九十五条に則り主文の通り判決する。

(裁判官 斎藤省一郎 観田七郎 村上久治)

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